確かなものなどなかった。美しい言葉、正しい道徳だけを 見せてくれた甘いキャンディのような孤児院の中にいてさえ、 世の中には沢山の汚いものがあると知っていたから。

孤独だったわけじゃない。それなりに友達と言える人間や、気の許せる相手もいた。

耳に心地のいい軽い言葉、その場のノリの約束。俺は安い裏切りと 蔓延するドラッグから逃げるように、マフィアの仲間入りを決めた。

今考えればガキのないものねだりだったかもしれない。

窮屈な孤児院を飛び出し、段々と自由に膿んで行く。

自分を取り巻く全てのものから解放された俺は、自由というものが孤独と同義語なのだと知った。

顧みる者も、繋ぎ止めてくれるものも何もない。

一人、堕落という名の沼に片足を突っ込んでいる―――それが、唐突に耐えがたくなった。

オメルタという『きまり』。刻まれる所属の証。

入りたての準構成員のタトゥーを、首輪のようだと馬鹿にしていた俺は、 自分の体にそれを刻んで、やっとその意味を理解した。

たとえ死への恐怖という強制つきでも、仲間は自分を裏切らないと思える。

手を汚すことは怖くない。泥に呑み込まれて行くよりは、血に塗れていたかった。

うすのろだった命のカウンターが動き出す。さあ、あとどれだけ持つのかと。





『カウントダウン』





デイバンホテル最上階、ラウンジ。

もうすぐ開かれる幹部会議を待っているジャンは、ソファで煙草を吹かしていた。

その視線の虚ろさに、一瞬言葉をかけるのを躊躇う。焦点の定まらない、 ぼんやりとした瞳だった。

時折、ジャンはこんな顔をすることがある。酷く気怠げで、投げやりで。 そういう時、俺はいつもジャンを放っておけないと思った。

「おい、ジャン」

声を掛けると、ジャンはふっと現実に立ち戻るかのように、瞳に生気を戻して 俺を見た。 声を掛けたのが俺だと知って、曖昧に笑う。

「ああ、ベルナルドか。早いな、もう少し掛かると思ってたぜ」

引き継ぎはいいのか?とジャンが尋ねたのに、俺は肩を竦ませて答えた。

「区切りがありそうにもないんでね、後回しにしてきた。イヴァン以外 の二人とは連絡がついたが、イヴァンがもう少しかかりそうだ」

「そか。会議終わったら俺も電話番手伝うぜ。俺にできる事って言ったら、 それぐらいだしな」

「謙遜を。昨日は助かった。どうやってあのベニヤミン氏を納得させるか 頭を抱えていたからな」

ジャンはそれには答えずに、口元を歪めた。不安と疲れの入り混じったその 表情は、ジャンには似つかわしくないそれだった。

わかっている。不安にさせているのは俺だ。

幾らのっぴきならない事情が あったとはいえ、幹部会議にも掛けず、誰にも相談さえしないで敵の幹部と 交渉しに行ったんだ、不信を買うのは当然と言える。

その件については、これから幹部を集めて説明をするつもりだ。その為に、 ジャンにもここで待機してもらっている。ほどなく他の三人も集まってくるだろう。

「なあジャン、俺は」

「ベルナルド」

一足先に弁解しようとした俺の言葉を遮るように、ジャンがゆっくり首を横に振った。何も言うな、という動きに、俺は口を噤む。

「いい。俺は―――お前を疑ったことなんかない」

だから、言い訳なんかするな。何も言わなくていいというのか。だったらどうして あんな顔をする。

(俺がお前を、CR:5を裏切っているかもしれないと―――そう思ったからじゃないのか)

昔俺の部下の一人が制裁を喰らって処分された時も敵の奇襲に遭って死線を潜り抜けた後も、ジャンはあの顔をしていた。

生きていることを確かめるように、眠気を打ち消すように、ゆっくりと瞬きを 繰り返しながら。

俺は問い質したい気持ちを抑えて、サロンに背を向ける。今の自分にはそんな資格がないことは、よくわかっていた。

不快感でさっき食べた物を全て吐き出してしまいたい衝動に駆られた。

ジャンに疑われているかもしれない、弁明すらさせてもらえないほどに深刻に。そう思うだけで、どうしようもなく胸が焼ける。

他のどいつに疑われようと罵られようと、俺の胸は少しも痛まない。そんなに繊細な神経は持ち合わせてはいない。

だが、ジャンだけはだめだ。ジャンだけが、俺を傷つけることができる。酷く簡単に、より深く確実に。

それは、俺にとってジャンが誰よりも特別な存在だからだ。

「待てよ。ベルナルド」

踵を返そうとした俺を、ジャンが呼びとめた。そして、笑って煙草を強請る。

俺は少しだけ許された気分になって、ジャンに煙草を一本手渡す。ジャンが咥えた 煙草を上下に揺らして、火を要求した。

「手がかかるお姫サマだな・・・」

口ではそんな事を言いながら、俺はライターを取り出した。内心は、こうやって つまらいなことでジャンを甘やかすのが、楽しくて仕方がないくせに。

ライターの火を煙草に近付けると、ジャンはすうっと息を吸った。ふわりと 香る上質の煙草の香りに、うっとりとした表情を見せる。

綺麗だ。俺はこんな状況でもそんなことを考えられる自分を自嘲する。そして、 今度こそ踵を返して仕事場へと戻って行った。



***



ベルナルドが仕事場へ戻って行くのを、俺は煙草を吹かしながらじっと見つめていた。

いつでも俺を甘やかしてくれるベルナルド。だが、どんなにあいつが俺を特別に扱っても、俺とベルナルドの間にはいつも壁があった。

それは酷く薄いようでいて酷く高く、俺は触れることさえできない。

かわりに、距離感を確かめる。煙草を強請ったり、軽口を叩いたり、どこまでなら ベルナルドが許してくれるかを測って。

そうやって、今までやってきた。つかず離れず、お互いに居心地のいいスタンス。

最初に超えたのはベルナルドの方だ。

刑務所を脱獄した後の、山小屋で俺に触れてきたベルナルド。

あれをどう処理すべきか、俺は迷っている。そして、持て余している自分自身の 感情についても。

ベルナルドが女に電話をしているのが気になったり、今更ながらに何故 ベルナルドが俺にここまで親切にしてくれるのか知りたくなったり。

聞いてはいけない。それは壁だ。わかっているのに、どうしようもない。

(こんなこと考えてる場合じゃねえのに。ベルナルドがなんで俺達に 黙ってGDの幹部と会いに行ったのか、気にするべきだろ)

ましてや、相手の幹部はベルナルドの旧い知り合いだと言う。ベルナルドが 裏切っていない確証なんて、何一つないのに。

それでも、俺はベルナルドを疑う気になれなかった。というか、 どれだけ材料を並べても猜疑心が湧きあがってすらこない。

もしベルナルドがいつか裏切るつもりで、お気楽な俺を幹部に据える手伝いをし、 ボスにと考えているのだとしたら、大成功だ。

俺はすっかりあいつに慣らされて、餌付けされちまってるようだから。

煙を大きく肺まで吸い込んで、目を閉じる。時計の音が酷くはっきりと耳を打つ。

カツンカツンという針の落ちる音が、自分の中で刻まれるカウンターの音と 重なる感覚。ああ、まただ。

心臓の鼓動が刻むカウントダウン。俺はあとどのくらいこうしていられる?

刻々と終りに近づいているのだと、いつもは気にならないその現実が、時折無性に気にかかる。

深く吐いた溜息は、ベルナルドの煙草の匂いがした。脳裏に山小屋での事が 思い起こされる。

(あいつは、裏切らない―――俺は、ベルナルドを信じてるのか?)

それとも、裏切っていてもかまわないのか。そう考えて馬鹿なことだと笑う。

そこまでベルナルドに入れ込む理由などないだろう。少しばかり付き合いが長くて、 少しばかり融通が利く知り合い。ただそれだけの相手に。

露悪的にそう考える俺に、もう一人の俺が問いかける。ならなんでお前は、 ベルナルドを疑うことができないのかと。

俺は自分を納得させる考えもなく、また視線を宙にさまよわせた。

このタトゥーを入れた時。俺はまだガキで、この世界が汚れていると知って、それでも夢を見ていた。

確かなものはあるのだと。自分を裏切らないものを手に入れられたのだと。

その価値観は、ベルナルドが情報を漏らした自分の部下を制裁しなければならなくなるという形で二年も経たずに否定され、俺は喪失感を味わった。

それから、たいした欲も持たずに生きてきた。俺が望んだものは、 手に入らないと知った。絶対など、この世には存在しない。

組織の上へ昇るためにガンバろうという気は失せて、そのうち食事の支度目当てで適当に刑務所に入ることを覚え始めていた。

刑務所は思っていたよりも居心地がよく、抗争も組のしがらみもない。 何のことはない、俺は根無し草になりたがっていたのだ。

エレベーターが止まる音がして、ルキーノが数人の部下とラウンジに入ってくる。 俺は考え事をやめた。

あと数時間もすれば、幹部会議が始まる。それが終われば、 俺はまた電話番に戻り、些細な事に気を払う時間はなくなるだろう。

俺はルキーノのためにボーイにコーヒーを手配させると、黙ってソファに沈み込んだ。



***



ほどなくしてGDとの一件が沈静化し、俺はボスになった。

刑務所とシャバを行き来していた頃とは比べ物にならない生活が始まり、 俺は忙殺されそうな程の雑務の処理と、溺れそうな程の贅沢にどっぷりと 浸かるという不思議な状態になっていた。

しかし、それよりも劇的に変化したのは、俺とベルナルドの関係だろう。

俺とベルナルドは、新設された本部に移り住み、そこを主な塒として利用していた。

そして、誰にも秘密でこっそりと体を重ねている。背徳的な関係。男同士で ありながら、恋人の真似事をする。

ベルナルドはイタリア男らしく情熱的に俺を愛していると囁き、まるで箍が外れたみたいに俺を求める。

そういえば以前、俺との子供が欲しいとか言っていた。聞いた時は馬鹿なことだと呆れたが、ある意味では理に適ったことだったのだろうかとも思う。

絶対になくならないカタチあるものを手に入れようとするなら、それは全く 無駄なことではないだろう。 いつ消えてなくなるかわからないジブンという存在を、この世に刻みこんでおきたい と思うなら。

「愛してるぜ、ベルナルド」

椅子の後ろから抱き締めるように覆いかぶさって呟くと、アップルグリーンの瞳が俺を見た。ペンを滑らせていた手を止め、 満足そうに微笑む。

「なんだ、唐突だな。何かのおねだりか?」

「ひでえ。たまには俺だって純粋にラブコールすることだってあるっての」

俺達は笑いあって、キスをした。溶けてなくなりそうなキスを浪費する。

ベルナルド、お前の残り時間はどのくらい?俺のカウンターより、それは長く持つのかな。

それが二人同時ならいいとか甘ったるい幻想を抱くほどイカれてはいないが、 せめてそれが一分一秒でも先ならいいと思う。

「どうした?ジャン。俺の顔に何か付いてるか?」

俺らしくもなくもやもやと非建設的なことを考えながら、俺は目の前の 整った顔を凝視していた。ベルナルドがらしくもない俺の態度に 戸惑うのに、俺は唇を歪める。

「そうだな、とびきり形のいい鼻と眉と目とエロい唇がついてるかな」

いつかまたベルナルドがあの遠大な計画を実行したいと望んだなら、俺は それに乗ってやってもいいと思った。俺も少し、そういう気分で。

俺はベルナルドの唇に自分から唇を重ねて、らしくないついでに居もしない 神さまに祈る。

Ciao.ろくでもない神様。

時折俺を急かすあの音を遠ざけて、願わくばこの先なるべく幸せな物語を頼むよ。